世界中の動きをお知らせします

ボーア

ボーアが赴いたラザフォードの研究室では、自由に研究がなされ、活発な議論が飛び交っていた。

楽しい冗談が絶えず取り交わされ、気分をリラックスするためにスポーツも盛んであった。

ボーアは、研究室はこうでなくてはと考1920年にコペンハーゲンに作られたボーアの研究所(コペンハーゲン理論物理学研究所)で自由闊達な雰囲気を盛り上げた。

この空気を6年間、たっぷり吸った日本人研究者がいた。仁科芳雄である。

仁科は、この「コペンハーゲン精神」といわれる自由に研究を進める精神を日本に持ち帰り、移植した。その影響圏から湯川秀樹も朝永振一郎も育った、とさえいえる。

また、現代日本の産業を支える半導体テクノロジーもコンピュータも、仁科が発展に意をつくした量子力学なくしては存在し得ないことも忘れてはならないだろう。

そのボーアが1937年4月に日本にやってきた。

前々年に中間子論を発表したが、これといった反響を受けなかった湯川秀樹がボーアに会いに行って、中間子論を説明した。

しかし、ボーアは「きみはそんなに新しい粒子が好きですか」と反問し、理解を示さない。

湯川は失望した。しかし、ボーアがコペンハーゲンに帰り着く前に、中間子の質量を持つ粒子の発見が伝えられたのである。

ボーアと日本は、もうひとつ間接的な緑がある。1938年、ドイツで核分裂が発見され、そのニュースを翌年、ボーアはアメリカにもたらした。

ボーアは、アメリカのホイ―ラーとともに核分裂の理論を立てた。

この理論により、マンハッタン計画と呼ばれるアメリカの原子爆弾製造計画の基礎が築かれ、やがて広島・長崎に原爆が……。

第二次大戦後、ボーアはイギリス首相チャーチルやアメリカ大統領ルーズベルトに会い、原子力の国際管理を進言した。

しかし、この進言は無視され、以後米ソの原爆製造競争が始まり、日本の運命もそれに左右されていくのである。

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。