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ザ・100年企業

(週刊エコノミスト 2018年1月16日)

第1部日本的経営の源流

日本企業がなかなか強い成長軌道に乗らず、総人口も減少する中で、次の100年をどう切り開いていけばいいのか。100年企業の歩みから学ぶべきことは少なくない。

第一次世界大戦は11月11日、ドイツが英国など連合国と休戦協定を締結し、4年間にも及んだ戦闘に終止符を打った(ベルサイユ条約による講和成立は19年6月) 。

当時の日本は「大戦プーム」と呼ばれた好景気にわいていた。18年は実業家の小林一三が、関西で軌道を阪神急行電鉄と社名変更し、宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)が東京で初公演した年でもある。明治大学経営学部の佐々木聡専任教授は「箪気の時代が花開き、都市型の第3次産業が発達した時代
だった」と語る。

常に次の事業の種

この時期に創業した企業に共通するのは、欧米の技術を積極的に取り入れて国産化したり、時代の変化に合わせた製品やサービスを提供しようとしたりする果敢な意欲だ。「松下電気器具製作所」として第一歩を踏み出したパナソニックや、住宅用などのガラス生産を始めた日本板硝子、時計の国産化を目指したシチズン時計などが該当するだろう。その後、幾多の試練に見舞われたが、法政大学経営学部の二階淮教授は「危機になってから事業を転換す
るのではなく、前に次の事業の種をまいて変化の余地を残す強さがあった」と指摘する。

アベノミクスによる戦後2番目の景気拡大となる中、日本経済は持続的な成長への岐路に差し掛かっている。AI(人工知能)やIOT(モノのインターネット)といった技術が日進月歩で発展し、韓国や中国企業が台頭するなどグローバルな激しい競争にさらされる日本企業。

激動の時代を生き抜くヒントが100年企業に隠されている。

バナソニックはなぜ100年続くことができたか。

顧客.取引先.従業員の間に、やはり「続けることの価値」が非常に大きいという暗黙の了解があるためだ。創業者の松下幸之助は、1世代が事業に携われる25年を一区切りに、10回繰り返すことで素睛らしい世の中を作っていく「250年計画」という壮大な計画を立てた。

事業を続けることで社会を良くするという理念を持ち、成長してきた。この考え方は、13年から掲げるスローガン「ア・ベター・ライフ、ア・ベター・
ワールド(より良い朽守らしとより良い世界の実現に貢献する) 」にも込めている。

1 00年企業には信頼や実績の蓄積がある一方で、デメリットもあるのでは。

私は、デメリットの方が大きいと思っている。なぜなら、社会が全く変化しないのであれば、その蓄積がプラスになるが、社会は常に変化しているので、我々が蓄積してきたリソース(経営資源)が、社会の変化に対応できないことがあるためだ。

一方、スタートアップ企業は、何もないから、スピード感をもって新しい変化を起こすことができる。中国では、設立3年の企業が30年の企業と戦っている。3年企業は、顧客に近づかないと勝てないから、伝統的な企業よりイノベーション(技術革新)を起こす。

100年企業であるパナソニックは、ある種、顧客から遠くなってしまっている。だから、我々が顧客に近づかなければ、この苦難を乗り越えられない。それが社長になって一番感じたことだ。

13年に「BtoBシフト」を打ち出したのもそういう狙いか。

今までの大量生産型のBtOCのやり方より、顧客を特定して、その顧客に向けて何を提供するのかという形に変わらなければならない。顧客基点のイノベーションで良いモノをスピード感をもって提供できるのが望ましい姿だ。

その一方で、数字だけでは割り切れず、「良い企業」「人に優しい企業」でありたいというのも根っこにある。100年続く企業というのは複雑だ。

1 00年企業の強みは生かせるか。

パナソニックには事業部が35あるが、それぞれに技術やモノづくりで専門性や技術を持っている。そのリソースを、社会の変化や顧客の新しい要求に対して、フレキシプル(柔軟)に対応できれば、良さを生かすことができる。


「素直な心」と「生成発展」

松下幸之助の経営理念は、日本のスタートアップ企業にも影響を与えている。その通り。成功している起業家には、幸之助の本を読んで感銘を受けて、事業を始めたという人が非常に多い。ただ、だからと言って、パナソニックが尊敬できる企業になれるかは別の話だ。

当社は、08年に松下電器産業からパナソニックに社名を変えた。パナソニックとして、尊敬され、期待される企業に変わっていくという改革は、始まったばかりだ。その意味で、歴史は100年あるが、わずか10年の企業とも言える。

創業者の言葉で印象に残っているのは何か。
「素直な心」が基本中の基本だ。人の意見をよく聞く、社会の変化を素直に見る、それによってわが身を変えていき、何が課題なのかということを素直に考える。

これに尽きる。私の就任前にこの会社に課題があったとしたら、素直さを失っていたのではないか。自らを「幸之助の作った良い会社、立派な会社」
と認識するのが、素直な心なのか。実際はその逆だったのではないか。社長になってから感じた創業者への親しみやすごみはあるか。

親しみはない。すごみを感じる。ただ、怖い人というよりも、一番思うのは先見の明が非常にあったということ。本当に素直な心で世の中を見ていたのだろう。人より早く気付いて行動できるのが、幸之助のすごさだった。

それに、「人とは、人間とは」を常に考えていた。元々、人間は素直なはずだから、その本性のままに振る舞えば、その人は大きく変わることができるとい、考えだ。

社会に対しては、「生成発展(古きものが滅び、新しきものが生まれるということ) 」という言葉を残している。世の中は、絶えずダメになっているモノもあれば、新しく生まれているモノもある。今までやってきたことにこだわるのではなく、自然の理法に即して、発展している領域に積極的にチャレンジできなれば、会社も存続できない。私は社長室には、「素直な心」と「生成発展」の二つの言葉を掲げている。

利益は社会のお役立ち
11.12年度に2年連続の巨額赤字を計上、13年にプラズマテレビ生産からの撤退決定など苦しい時もあった。

その時は、幸之助の「利益は社会へのお役立ちである」という言葉が頭に浮かんだ。つまり、社会へのお役立ちの結果として利益を出すことができる。逆に言えば、利益の出ていない事業は社会へのお役立ちができていないということであり、顧客から遠くなっているということだ。

撤退したプラズマテレビを悪者にすれば、「世界最高のテレピを作っているからもうからないはずはない」という話りはきっとあったと思う。

画役は当時最高だったと思うが、だからといって、顧客と近かったかというとそうではない。社長になって最初のころはそんなことばっかり言ってい
た。「利益が出ていないのはお役立ちができていないからだ」「利益の出るところまで改革しなければならない」「それができないのであればやめるか売却しないといけない」と。

東芝やシャープとの違いは、どこに違いがある思っか。

両社と違いがあるとすれば、我々は、どちらかというと経営理念をたたき込まれ、それを非常に重視してやってきたこと。それくらいの差かもしれない。

過去2代の社長は任期6年で退任した。津賀社長は18年6月に6年を迎える。

次の100年に向けて、さらにしっかり経営基盤を作ってから進退を考えるのか。自分の進退のことは、自分自身だけで決めることではないかもしれな
いが、あえて言うならば、私自身は6年間という数字にはこだわっていない。やはり、就任当初から思っているのは、私より素晴らしい次の社長候補がいれば、一刻も早くその人にバトンタッチしたいと思っていたし、今も思っている。

55歳で社長になって、今は61歳。だいぶくたびれてきている(笑) 。ただし、これまでうちの社長になった人はすでに60歳を超えていた人が多い。そういう意味で年齢を理由に辞めるというのも少しおかしいかなと思う。あいまいだがそれが私の答えになる。

エネルギー革命も企業を牽引

今から100年前は第一次世界大戦が終了したとしである。当時の日本の財政は、その約10年前に戦われた日露戦争(1904~05年)の戦費調達のための外債発行によって、国債費(元利返済)が国家予算の3割を占め(外貨)事情は逼迫した状態にあった。金本位制下にあったために、正貨11金の不足は日本国内の通貨発行最を制約する一方、戦後に交代で政権を担った桂太郎と西園寺公望の下、日本は緊縮財政を強いられ、世の中の景況感は暗たんたるものだった。

第一次世界大戦が始まった時、当初は貿易の途絶を予想して世界は経済恐慌に陥るのではないかと懸念された。しかし戦争は次第に考えられていたよりも長期になることが明らかになった。国民経済全体で戦う総カ戦の様相を呈してくると、欧州列強の民生品の国際的な供給不足が目立つようになった。これは特に欧州の輸出先であったアメリカやアジア、アフリカ諸国での商品不足を際立たせ、戦場から離れたアメリ力と日本は戦争特需の恩恵を受ける
ようになった。

また、戦争が勃発するとイギリス海軍はドイツの軍港を悔上封鎖するとともに、自国の民問船舶の軍事徴用を行ったために、英仏独の民間船舶がほぼ海運市場から消え去り、残ったアメリカ、日本の海運業界は軍需品、民生品の交易の増大、船舶の不足から空前の活況を呈することになった。船主、造船所はまさにぬれ手であわの状況になったのである。大正時代の成り金の話はほとんどこの部門が出自である。

「大正の天佑」

12年からの日本の輸出と輸入、およびその結果日本国に蓄積された正貨金のグラフである。日本は対米輸出が大きく拡大し、残高はイギリスやロシアの戦時外債購入に出資した後にもかかわらず19年には20億円にまで達し、通貨発行の増大を通じて金融緩和効果をもたらし起業熱をかきたてた。

日露戦争後の課題であった正貨不足は第一次世界大戦の戦争特需によって解消された。財政の元老井上馨はこの戦争に際し「大正の天佑」と喜んだが、まさに正を射た指摘であったのだ。また、イギリス海軍による海上封鎖によって、戦前はドイツなどから輸入していた梢巧な工作技術を必要とする工作機械や光学機器、染料などを中心とする化学製品などの輸入が途絶したために、日本の工業界はその代替品を生産する必要性に迫られた。さらに英米仏などから輸人していた高付加価値な工業製品も戦争による需要から輸入が困難になり、日本は「強制された輸入代替」を何としても達成せねばならなくなった。こうした背景から戦争4年目の17(大正6)年以降、日本では「会社狂時代」(当時の「週刊ダイヤモンド」の表現)ともいうべき企業設立プームが起こったのである。

事業計画資(大蔵省統計、日銀統計にある「株式会社の設立増資並びに起債中確実であると認めたもののうち金額10万円以上のもの」) の推移である。

戦前の5年間は新設、拡張ともそれぞれ年に2億円前後で推移していたが、20年には新設30億、拡張20億円の水準にまで達し、当時は既存企業の設備拡充に加えて、まさに空前の起業プームがあったことを裏付けている。

以上から第一次世界大戦が日本の工業発展におよぽした影響は、①輸出の進展、②輸入代替品の国産化、を中心に考えられがちだが、経済史の中村隆英東京大学名誉教授(故人)はこれに③電力産業の発達という技術的な要因を加えている。

日ロ戦争後、技術が外国から導入されたことで、電力を長距離送電できるようになった。

今日よく目にする高圧線の登場である。それまでは工場の横で石炭ポイラーと発電機による発電を行っていたものが、山岳地帯の水力発電所から京浜、阪神工業地帯などに電力の送電が可能になっていた。同時に東芝は米GE(ゼネラル・エレクトリック) から、三菱電気は米ウェスチングハウスから電動機(モーター)の技術を導入し、日立製作所は自身による国産化をすすめていた。

蒸気から電力へ

第一次世界大戦開戦1年前の13年には軍力の動力需要が電灯需要を超えた。それまでは電気は主に電灯に使われていたのである。その翌年には工業動力において電力が蒸気機関を超えた。それまでは工場を設立する際には、蒸気動力設備への大規模な投資が必要だったが、発電所からの送電と電動機の登場は電線を引き、電動機を設置するだけで済むようになり、工場動の確保を安価にして製造業の新規参入のハードルを引き下げたのである。

戦争の特需に注目が行きがちだが、日本においてもインフラに直結する技術革新が着実に進行していたことは重要な要素である。

この時代は第2次産業の全産業に占める構成比率が戦前の30%から40%まで増加し、製造業の労働生産性も著しく向上していた。欧州列強不在の代替を務める問に、日本における後期産業革命が急速な発展を遂げたとも言えるだろう。

また終戦の18年は、当時の原敬内閣の高等教育拡張政策に基づき大学令が公布されたことも見逃せない。それまでは大学といえば官吏の養成を主眼とする帝国大学だけであったが、この大学令を起点にそれまで専門学校だった早稲田や慶応などの私立大学が大学として認められた。また官立の単科大学が多く設立され、以降は私立大学とともに勃興する産業界に対するホワイトカラーの人材供給源となっていった。

さて、こうした環境下で多くの企業が誕生したわけだが、現存している「100年企業」は、設立直後に大変な苦難にあった。というのも第一次世界大戦による戦争特需は長くは続かなかった。19年中ごろには早くも出超であった貿易が入超になり正貨が減少し始めた。ただ、市場では不思議なくらい弱
気を吐く者が姿を消して、多少の反動もこれは押し目の買い場であるとメディアの諸説は強気一辺倒であった。当時の株式市場を記した「兜町盛衰記』は「はじめは人が洒を飲み、中頃酒が酒を飲み、おわりに酒が人を呑む」と救世軍の進軍歌を紹介している。

誕生後は長期不況の苦難

かくして20年の3月に天井を打った株式市場はその後の不況とともに長い低迷期を迎えた。その際、設立したての企業の多くが、側産あるいは財力のある財閥系グループに吸収される形で消えていったのである。

ウミガメの子供のほとんどは大人になるまで生き残れない。誕生直後に長期不況の苦難にあい、日本が焼け野原になった第二次世界大戦を乗り越えて
今日まで存続する100年企業。そこには、困難が予想されるこれから先を生き抜くヒントが数多く隠されているに違いない。

関東大震災・昭和恐慌

1920年代、大正そして昭和へと移りゆく局面で、日本企業は大きな試練を迎えた。関東大震災によって深刻化した信用収縮、そして国際金本位制への復帰に伴う輸出減退とデフレ不況などが日本を襲ったが、当時の企業はこれらの壁を乗り越えなくてはならなかった。

2018年に創業100年を迎える企業にとっては、創業間もない時期で迎えた壁である。第一次世界大戦が1918 (大正7)年11月に終了した直後、東京株
式取引所(現・東京証券取引所)に上場していた銘柄は軒並み高騰し、日本経済は空前のプームを迎えた。

しかしプームはほどなくクラッシュする。株価の急落とともに綿糸や生糸の商品価格も急落し、繊維産業は工場での操業短縮など危機への対応に迫られる。そして、無理な事業拡張が災いし、経営不振に陥る企業も少なくなかった。

それでも多くの企業は、株主を優遇するため可能な限り高い水準の配当を支払おうとする。利益が出ていないにもかかわらず配当する、いわゆるタコ足配当も横行した。また、粉飾会計や事業資金の横領といった不正行為は、当時のピジネス誌「東洋経済新報」などで頻繁に暴露・糾弾された。

事業会社の信頼が低下する中、追い打ちをかけたのが23年の関東大震災であった。日銀の調査によると、関東大震災により55億638万円(前年の国民
屑の35%分に相当)の国富が失われたという。

ただし、復興時に近代的なビルの竣工ラッシュが続いたことが奏功し、長い目で見れば復興過程は帝都東京の成長につながった。

高橋.井上の決断

しかし、震災後にはプームの無審査融資があだとなり、銀行は不良債を抱えた。信用収縮が日本を覆い、日銀は不良債権化した手形を再割引して資金融通した。この手形を「震災手形」というが、震災手形には震災とは関連のない不良債権も含まれていた。震災手形の返却は遅々として進まず、27 (昭和2)年春には「昭和金融恐慌」という全国規模の銀行パニックを引き起こした。

銀行の預金業務を一時的に停止させてパニックの終息を図った。そして、日銀総裁の井上準之助は銀行再建のため日銀特別融資を断行した。

金融不安の払拭は日本の政財界にとって、対外関係の面でも重要な課題であった。国際金本位制への復帰、すなわち金解禁によって外国為替相場を均整化し、赤字続きの貿易収支を改善しようと金融あるいは繊維業界で強く叫ばれていた。

国際金本位制とは、金を裏づけに通貨を発行する国々の間で金現物の輸送を自由化する枠組みである。日本は17年に金諭出を禁止して枠組みから離脱したが、蔵相となった井上準之助は30年、金解禁を断行。その際、金と円との交換比率を旧来の水準で復婦した(旧平価解禁) 。井上は事実上の円切り上げで輸出減退を避けようとした。しかし結果として貿易収支はむしろ悪化した。

貨金カットや失業が広がり、「昭和恐慌」と称される深刻なデフレ不況が日本経済を製う。31年には再び蔵相に就任した高橋是消が金輸出再禁止を断行し、国際金本位制から離脱する。その後、通貨の発行を中央銀行が管理する管理通貨制度への移行に伴う円安効果を享受しつつ、多くの日本企業は技術革新やM&A(企業の合併・買収)を通じた経営再建の道を模索することになる。

安全自動車

初代中谷保はアメリカンドリームを求めて明治39年に21歳で米国に渡った。西海岸の都市ポートランドで日本人が経営する商社で働いたが、明治41
(08)年にT型フォードが発売され、自動車社会が訪れるのを目の当たりにした。日本にも必ずこの波がやって来ると確信し、大正7 (18)年、日本で自動車の輸入販売会社、安全自動車を設立した。

特に米国の乗用車「ダッジ」(現在はクライスラーの一プランド)の日本総代理店となり、事業を大きく拡大した。当時のダッジは堅牢なつくりで知られ、がたがた道や箱根の山道でもよく走ると評判だった。

また、ガソリンスタンドも経営し、日本で初めて地下埋設型のタンクを採用した。大正12 (23)年の関東大震災では、多くのガソリンスタンドが被災して営業できなくなるなか、地下タンクだった当社の施設は無事で、すぐに営業再開ができ、長蛇の列ができた。先見の明があった証しだろう。

山王ホテルを経営

本業ではないが、多角化経営の一っとして東京の山王ホテルの経営にも乗り出した。昭和11(36)年の2.26事件の舞台として知られている。反乱部隊の拠点として占拠された。保は、反乱兵のリーダーだった安藤輝三大尉に「なぜうちのホテルを」と抗議したそうだが、もちろん聞き入れられなかった。

戦後は米軍に接収され、現在は山王パークタワーが建っている場所だ。戦時中は、自動車の生産にも着手した。技術者を集めて試作車「日光号」を作り、生産に向けて準備を整えようとした矢先、軍需優先で乗用車の生産は停止させられた。ちなみに日光号の開発主任だった人は、その後、トヨタ自動車に移り初代クラウンなどの開発に携わった。

戦後、米国車の翰入販売は下火になった。そこで当社は、自動車の検査・整備機器の製造、販売に力を入れるようになった。現在は、自動卓メーカー向けの検査設備と、整備工場向けの整備・車検機器などが主力尚品になっている。

特にホイール・アライメント・テスターと呼ぶ車輪の取り付け角度を測定する装骰は重要な戦略商品だ。測定の正確性はもちろん、従来は人が行っていた角度の調整を機械が自動で行うので、自動車メーカーのラインの効率化につながる。今後は海外でのビジネス展開を強化するとともに、機器単体ではなく工場全体を管理するシステムを提供していきたい。

SMBC日興証券

44年旧日興証券と合併、その後2007年に米シティグループの子会社となり、09年に三井住友フィナンシャルグループ(FG)の一員となった。

100年の間には山あり谷あり、それを切り抜けてきた諸先輩方には敬意を表したい。激しく時代が変化する中で、したたかさ、パックグラウンドを持つ人材の集合体というのが強みだ。シティや三井住友銀行、日興コーディアル証券、生え抜きといった具合に出身母体が実に多種多様だ。変数が多い時代に、こうした多様性に満ちた組織のほうが強い。

私は創業100年の節目の年に社長を務め、今後の100年をつくれることにワクワクしている。不透明で、不確実、不安定という今の時代に当社の強みが生かせると考えているからだ。

多種多様な集合体ゆえに、ベクトルを―つの方向に向けるのは大変ではないかとの声もある。それには私が、社員が興味を持てる方向性を打ち立てなければならない。

三井住友FG入りした今、その方向性とは三井住友行と直接金融の当社がツインターボとなってやっていくことだ。国内トップか、それに対抗できるものしか、生き残れないというのが私の持論。現状の証券業界は、1強(野村ホールディングス)4中だ。現状2位グループにいる当社が、19年3月期までに1強に対抗できる圧倒的2位になる。

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